The Sound of Music
─宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』
 
“Heard melodies are sweet, but those unheard
are sweeter".
John Keats “Ode on a Grecian Urn"
 
リハーサル Largo con tuta la forza
 
The hills are alive with the
sound of music
With songs they have sung for a
thousand years
The hills fill my heart with
the sound of music
My heart wants to sing every
song it hears
My heart wants to beat like the
wings of the birds
That rise from the lake to the
trees
My heart wants to sigh like a
chime
That flies from a church on a
breeze
To laugh like a brook when it
trips and falls
Over stones on its way
To sing through the night
Like a lark who is learning to
pray
I go to the hills when my heart
is lonely
I know I will hear what I've
heard before
My heart will be blessed with
the sound of music
And I'll sing once more
(Julie Andrews “The Sound Of Music”)
 
金星音楽団のゴーシュのチェロは無表情で、通常の音楽家は走る傾向にあるのに、遅れがちであり、しかも調律があっていない。しかし、それはgaucheだからではない。アラン・ドロンが三船敏郎やチャールズ・ブロンソンと共演した名作『レッド・サン(Red Sub)』(一九七一)で扮した役名が「ゴーシュ(Gauche9」であったのは、極めて重要である。あの左利きのガン捌きはその名にふさわしい。ここでのゴーシュはかの作品のアラン・ドロンとして読まなければならない。楽団長は音楽を規則的=決定論的な音によって構成されていると信じて疑わないが、ゴーシュのセロは決定論的非周期性に基づく音を奏でる。初期値敏感性を持ったゴーシュのチェロは決定論でも確率論でもなく、必然でも偶然でもない。楽団長はゴーシュを「いつもきみだけとけた靴のひもを引きずってみんなのあとをついてあるくやうなんだ」と非難する。振動が速くなると、音高は高くなり、音波の振幅が大きくなると音量が増大する。音色は倍音の数や響き具合、またエンベロープによっても決定される。「解釈の方法とは、書かれているものを演奏しないということだ」(パブロ・カザルス)。夜の訪問者の三毛猫がゴーシュにロベルト・シューマンの『トロイメライ』をリクエストしているのは、決して、偶然ではない。「シューマンの曲はあくまでもピアノの〈自然〉に逆らって分裂的な運動を続けようとする。(略)晩学のため上達をあせって、薬指を固定したまま練習するための奇妙な機械を考案し、それで右手をこわしてしまったという、出来損ないのピアニストにふさわしい作品なのである」(浅田彰『シューマンを弾くバルト』)。ロベルト・シューマンはゴーシュに近い音楽家である。Gaucheのche はSchumannのsch と同じように発音しなければならない。シューマンは、ベートーベンやブラームス、ハイドン、ドボルザーク、ラロと並んで、パブロ・カザルスの好んだ作曲家である。「最高のテクニックとは、まったくそれと気づかれないようなものだ」(カザルス)。
ゴーシュのチェロはありあまるパワーを使った力技である。樂団長は、ゴーシュが『印度の虎狩』を演奏した後、「からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまうからな」と言っている。ゴーシュのチェロは、グレゴール・ピアティゴルスキーのような甘くでもなく、ヤーノシュ・シュタルケルのような絹の美しさでもなく、ヨーヨーマーのような軽やかさでもなく、ミッシャ・マイスキーのような重厚さでもない。ジャクリーヌ・ドゥ・プレのように情熱的で、ムスティスラフ・レオポルドヴィチ・ロストロボーヴィチのように力んでセロを弾く。オーケストラ全体の練習中、指揮者もコンサート・マスターも見ないで、「口をりんと結んで眼を皿のやうにして楽譜を見ながら一心に弾いている」ゴーシュのチェロ演奏の姿勢はオーケストラの一員ではない。チェロを力んで弾くゴーシュにはソリストの姿しか見られない。弦楽器のソロはメリハリをつけなければならないため、右手の指はいつもより硬くして弓を持ち、左手の指は弦を叩くようにして押さえる。ゴーシュは、「いきなり棚からコップをとって、バケツの水をごくごくのみました。それから頭を一つふって椅子へかけるとまるで虎みたいな勢でひるの譜を弾きはじめました。譜をめくりながら弾いては考へ考へては弾き一生けん命しまひまで行くとまたはじめからなんべんもなんべんもごうごう弾きつづけました。夜中もうとうにすぎてしまひはもうじぶんが弾いてゐるのかもわからないやうになって顔も真っ赤になり眼もまるで血走ったとても物凄い顔つきになりいまにも倒れるかと思ふやうに見えました」。ピエール・フルニエの上品さやアントニオ・ヤニグロの優雅さをゴーシュには見出せない。ニーチェは音楽をアポロンと対比させてディオニュソスによって捉えたが、賢治は金星楽団をアプロディテ、ゴーシュをヘパイストスとして描いている。音楽を考える際に、ニーチェが古代ギリシアの比喩を用いているのには理由がある。ユダヤ人や中国人は音楽に対して積極的な姿勢をとらない。律法には「音楽」という単語がないため、現代ヘブライ語では、ギリシア語からの借用語を使っているし、中国の楽器は、胡弓を筆頭に、ほとんど西域から伝えられている。賢治にとって、音楽は、何よりも、エネルギーをエントロピーに変える力であり、ヘパイストスとアプロディテの弁証法である。音域が非常に広く、通常は、四オクターブであるが、五オクターブ以上も使われることもあるため、チェロ演奏の最大の困難は、広い範囲に手を動かさなければならない点である。「私は芸術家だが、自分の芸術を実践するときは結局一介の筋肉労働者なのだ……これまでだってずっと」(カザルス)。十九世紀という神の死において、音楽をアポロンとディオニュソスとの対比で捉えられても、「ゴドーを待ちながら」(サミュエル・ベケット)という茶番劇の時代では、音楽家は道化でなければならない。
美の神アプロディテ(ヴィーナス)の夫へパイストス(バルカン)は鍛冶の神であり、足が不自由で、醜く、母親のヘラからも疎まれ、他の神々に知られぬようにオリュンポスから投げ落とされ海に落ち、海底で九年間テティスに育てられ、そこで鍛冶の技を教わる。母への復讐を考え、黄金の椅子を作って、ヘラへ送る。椅子に座った途端、鎖がヘラを縛りつけ、神々の誰一人鎖を断ちきることができなかったので、ヘパイストスに依頼したが、彼はヘラを解放しようとはしない。ゼウスはディオニュソスを呼び、ヘパイストスに酒を飲ませ、酔っている隙に椅子の鍵で縛りを解いた。 オリュンポスに住むことになったヘパイストスはアプロディテと結婚するが、アプロディテはヘパイストスの弟で、残虐非道なため、嫌われ者の戦争の神アレス(マーズ)と密会を重ね、それをヘリオスから聞いたヘパイストスは二人が寝ている所を縛りつけ、神々の見せ物にしてしまう。神々はヘパイストスを嫌っていたが、彼をオリュンポスから追放できない。と言うのも、神殿や武器、装飾品は彼だけがつくれたからである。層流的な美は不安定で乱流的な醜の一種にすぎない。
 
第一楽章 Allegro liberamente
カザルスは「私のチェロは何かと口うるさい暴君だ」と言っていたが、賢治は愛用のチェロについて「こいづは、俺の妻だもす」と周囲に話している。賢治が愛する楽器としてチェロほどふさわしいものはない。彼は、練習していたとしても、本質的に、オルガニストにはない。それは、盲人のオルガニストであるヘルムート・ヴァルヒャの禁欲的でビブラートのない正確な演奏と比較してみれば、明白である。弦楽器の演奏家のアドリブやメロディーフェイクを行わない傾向があり、弦楽器の特徴はビブラートあるが、チェロのビブラートは、バイオリンとは違い、控え目である。さらに、チェロのテノール音域の音色は非常に美しく、奥行きがある。賢治の作品はこうした特徴のチェロが最も具現している。
 
Edelweiss, Edelweiss
Every morning you greet me
Small and white 
Clean and bright
You look happy to meet me
Blossom of snow 
May you bloom and grow
Bloom and grow forever
Edelweiss, Edelweiss, 
Bless my homeland forever
(Julie Andrews “Edelweiss”)
 
セロ、すなわちチェロ──正確には、ヴィオロンチェロ──は、全長がバイオリンの二倍、厚さは四倍ある。演奏者は椅子に腰かけ、楽器の下部にとりつけられた長さを調節できる多くは金属製のエンドピンと呼ばれる棒を床に突き立てて、それを膝ではさむようにして演奏する。弓は右手の指すべてを使って持ち、弦に対して直角に置き、運弓の際は、弓をつねに水平に保つ。他の弦楽器同様、弦を指で弾くピッチカート操法もある。弦はかつては羊の腸からつくったガット弦が用いられていたが、最近はそれをスチールで巻いた丈夫なスチール弦が広く普及している。ただし、オランダのチェリストであるアンナー・ビルスマはガット弦を使い、バッハ没後二五〇周年記念でバッハの『無伴奏チェロ組曲』BWV一〇〇七─一〇一二を全曲演奏する際に、次のように説明している。「バロック時代の演奏法として後世に伝わっているのは主にフランスの演奏法なのです。彼らは音楽の一つの学派として演奏の教授法を残していたのでね。ところが、当時の楽器の名手は明らかにイタリア人が多かった。そしてイタリア人は自由奔放に独自のスタイルで演奏したから、文献なんて残していない。私はそこに着目したのです。一般に『正しい』とされている弓の使い方にとらわれずにバッハの楽譜に現れている曲想を忠実に表現してみようと考えたのです」。ガット弦は、スチール弦と比べて、切れやすく、調弦も頻繁に行わなければならないという欠点があった反面、アタックが弱いため、弦や楽器が鳴りきらない前に次の音に移れ、スチール弦を張った楽器では非常に困難なテンポで演奏することが可能である。さらに、十八世紀末に、フランソワ・トゥールトが弓を改良し、それは「弓のストラディヴァリウス」と喩えられ、現在に至るまで弓の規範となっている。十八世紀後半までのチェロは、低音を演奏し、音楽に厚みのある響きを与えるための楽器だったけれども、二十世紀にはセルゲイ・セルゲイヴィチ・プロコフィエフとドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコヴィチが、独奏楽器としてのチェロの能力を追求し始める。チェロの演奏技術は、二十世紀に入ってから、飛躍的に高まっているが、その最大の演奏家はカタロニア生まれのパブロ・カザルスであり、チェロは、彼によって、バイオリンと並ぶ弦楽器の主役に踊り出る。このマエストロは、一九〇九年、ヨハン・セバスチャン・バッハの『無伴奏チェロ組曲第三番ハ長調』BWV一〇〇九を演奏曲目に加えてから、広く認められる。大バッハの時代のチェロは、現在の四弦とは違い、五弦であったため、この曲の演奏は技術的にも難しく、誰も手をつけていない。
カザルスは「偉大な作曲家の作品をまるで好きになれない、ということだって大いにありうる」し、「実験をやめたとたん、私たちの歩みは完全にとまってしまう」と公言してはばからない。従来支配的だった解釈や奏法にアンチテーゼを唱えたため、特にフーゴー・ベッカーはカザルスに激しく異を唱えている。アルトゥーロ・トスカニーニもカザルスが嫌いである。トスカニーニのブラームスは速すぎると発言したせいである。カザルスも指揮はしているが、指揮者や批評家からあまり評価されていないだけでなく、演奏家からの反応も否定的なものが多い。また、カザルスは、「偉大な芸術家はみな改革者だった」と言いながらも、ポップスもピカソも認めなかったし、「逆立ちして歩くみたいなこと」とカザルスは現代音楽を否定している。クロード・ドビュッシーやモーリス・ラヴェル、ダリウス・ミヨーですら「音楽の大きな流れからの退廃的な逸脱」と批判している。「独創性を強調していると、行き着く先は脱線だ」。ただし、アルチュール・オネゲルだけは別である。現代音楽家たちも、カザルスに対して、黙ってはいない。イゴール・フェドロヴィチ・ストラヴィンスキーはカザルスを「バッハをブラームスのスタイルで演奏する」と非難している。
欧米の作曲家はピアニスト出身が圧倒的に多いが、チェロを演奏する作曲家としては、ヴィクトル・アントワーヌ・エドワルド・ラロやアルノルト・シェーンベルク、トスカニーニがチェロから音楽のキャリアをスタートしたことが知られている。先にあげた『無伴奏チェロ組曲』以外にも、チェロの名演奏家としても知られるルイージ・ボッケリーニの『チェロ協奏曲変ロ長調』、フランツ・ヨゼフ・ハイドンの『チェロ協奏曲ニ長調』作品一〇一、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベンの五曲の『チェロ・ソナタ』、アントン・ドボルザークの『チェロ協奏曲ロ短調』作品一〇四、シャルル・カミーユ・サン=サーンスの『白鳥』がチェロの名曲として知られている。最初にチェロの独創曲を作曲したのは十七世紀イタリアのドメニコ・ガブリエリであるが、現在ではチェロだけの重演──四、六、八、十二重演──のアンサンブルも行われている。現在のチェロの原型は十六世紀中ごろのイタリアで考案され、チェロの標準寸法を決定したのはかのアントニオ・ストラディヴァリである。「ストラディヴァリウスを持ちたいと思ったことはない。私の考えでは、このとびきり素晴らしい楽器は個性が強すぎる。演奏していると、今自分の手の中にあるのはストラディヴァリウスだ、ということが頭にこびりついて離れない。それはずいぶんと気の散ることだ」(カザルス)。
チェロの演奏に用いられる譜表は低音部記号、テノール記号、高音部記号の三種類である。また、高いポジションの音を弾くとき、親指を指板の上にあげることがあり、親指の記号を用いる。チェロは、ヴィオラより一オクターブ低く、下から、ハ、ト、一点ニ、一点イに調弦する。「一点音(one-line octave)」は、中央のハ音から、その七度上のロ音に至る音を意味する。西洋音楽では、♭はシ・ミ・ラ・レ・ソ・ド・ファの順で増えていき、♯は、逆に、ファ・ド・ソ・レ・ラ・ミ・シというように付加される。チューニングは「平均全音律(Equal Temperament)」、いわゆる平均律より低く合わせる。ピアノは高低が固定されているため、整数比がすべて正確に成り立つようにできないので、「純正律(Pure Temperament)」ではなく、平均律で調整する。
音楽の歴史は楽器と編成の歴史である。曲は楽器と編成に基づいてつくられるのであって、その逆ではない。バイオリン属の楽器は、もともと、地方の踊りの伴奏に用いられている。ルネサンス期には、バイオリン属より静かで落ち着いた音を奏でるビオラ・ダ・ガンバの方が好まれていたが、イタリアでやや先行し、十八世紀の後期バロックや古典派の音楽家は室内で塩蔵する表情豊かな作品を目指していたので、バイオリン属の楽器が主流になっている。ロマン派の時代の十九世紀に入ると、大きなコンサート・ホールが出現し、ロマン派の「超絶技巧家(virutuoso)」も登場するようになり、大きく華やかな音が必要となったため、オーケストラの主要な弦楽器──バイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバス──は、音域と音量が増大するように改良されている。十八世紀前半のバッハの時代、音楽家は宮廷や教会に奉仕して生活していたが、十八世紀後半のモーツァルトの頃になると、市民社会が発達し、フリーランスの音楽家が登場し始める。ベートーベンやロマン派になると、演奏や作品の出版活動により生計を維持できるようになっている。興行師がスター性を持った演奏家、特に超絶技巧家を起用し、大きな会場に多数の聴衆を集め、話題性のある作品を掲げた演奏会を催すようになる。音楽が近代資本主義=商業主義の採算ベースに乗り始め、「神の死」を迎えたのである。大きなコンサート会場に耐えられるように、産業革命の技術が応用され、楽器も大音量が出るように改良される。モーツァルト愛用のピアノの重量は七十キログラムだったが、今のフル・コンサート・タイプのグランド・ピアノは、実に、七百キログラムもある。その結果、各楽器の音量バランスが崩れ、演奏・作曲する際に、各楽器間の音量バランスを再構成せざるを得なくなっている。ヨハン・セバスチャン・バッハの『ブランデンブルク協奏曲第二番ヘ長調』BWV一〇四七では、トランペットとリコーダー、オーボエ、バイオリンが独奏楽器であるが、バッハは当時の楽器の特性と音量バランスにあわせて作曲している。これを現在の楽器でそのまま演奏すると、トランペットの音量が極端に突出するだけでなく、リコーダーが他の楽器に隠れてしまい、台無しになってしまう。また、今日、ベートーベンの交響曲を演奏する場合、木管楽器の声部のみ演奏者の人数を多くする措置がとられるが、ベートーベンが作曲した時代に比べ、楽器改良が進んだことにより、木管楽器の音量が金管楽器に対し弱くなったのを補うためである。そこで、作曲された当時の楽器を復元して、それを復元演奏し、忘れられた魅力を引き出す試みが行われている。ところが、電気メディアの登場、すなわち複製技術時代では弱い音が重要になる。クラシック音楽がコンサート・ホールを楽器に加えた音楽であるとするならば、記録技術の発達は、フィル・スペクターが試みたように、レコーディング・スタジオや録音機材も楽器の一種という認識を派生し、クラシックに代わって、ポップスが音楽の主流になっていく。ジャズやロックは、ある意味で、クラシック音楽よりも古典的である。ポップ・ミュージックでは、バロック音楽同様、楽曲の最小単位を小節ではなく、「拍(Beat)」に置かれている。バロック音楽も、ビートに合わせて、指を鳴らすことができる。チェンバロやハープシコードといったバロック時代の楽器は、ピアノと違い、アクセントをつける際、強弱が使えないため、音の長短によって表現している。音価──音符の表わす音の長さ──は同一ではない。バロックの作曲家はすべてのビートに「打拍(Pulse)」を打つ構造で楽曲を描く。古典派やロマン派においては、音楽の構成動機がビートに拘束されていない。彼らは個々の動機やリズムの相違を明確に表現することを目指し、音符の分割を均等にしなければならないと考える。音価も、個人の平等を掲げる近代と共に、平等になったというわけだ。古典派=ロマン派の作曲家は、小節の中に一定の数のビートを置きながら、パルスの数と位置を小節ごとに変え、浮動感を与えて楽曲を作成している。十九世紀末以降のクラシック音楽は映像メディアのBGMにふさわしい。アルノルト・シェーンベルクの音楽を聴くとき、サイレント映画の映像が浮かんでくる。電気メディアは弱い音を増幅できるので、これまでは聞き逃してしまうような弱い音でさえ、聞くことが可能になるだけでなく、コンピューターによって、ホールやスタジオの制限なしにいかなるものも楽器にできる。へパイストスはオートマトンやオートマタと呼ばれる数多くのロボットを抱えている。オートマトンはヘパイストスの命令に従って仕事を行い、オートマタは足の悪いヘパイストスを介助する。エリック・サティの『ヴェクサシオン』やイアニス・クセナキスの『シナファイ』の演奏も、コンピューターを使えば、可能である。さらに、記録媒体の普及は音楽にも神の死を迎え、音楽をさらに資本主義化させていく。パブロ・デ・サラサーテ自身が演奏した『チゴイネルワイゼン』の録音もドイツのグラモフォンに残されている。「とりわけフランスで意味されているような文化は、マクルーハンが電子テクノロジーと呼んだものによって、きっと近いうちに崩れ去るだろうと思います」(ジョン・ケージ)。ジョージ・ガーシュインの作品のみならず、一九一八年には、ストラヴィンスキーがジャズを取り入れた『ラグタイム』を発表している。多種多様な雇用を創出し、莫大な税金を納める産業と化した音楽界において、レコード・セールスの点では苦しくなったクラシックでは、ヘルベルト・フォン・カラヤンやグレン・グールドが電気メディアの可能性を見出し、ラディカルな発想を考案したにもかかわらず、寿命がついていけなかったのも「ゴドーを待ちながら」という時代を表象している。
 
第二楽章 Andante feroce
夜中になると、ゴーシュの元に動物たちがやってくる。登場する動物と曲はそれぞれ楽章を意味している。猫は『印度の虎狩』、かっこうはドレミファ、狸の子は『愉快な馬車屋』、野ねずみは『なんとかラプソディ』であり、これはベートーベンの『運命』の楽章に相当する。第一楽章はAllegro con brio、第二楽章はAndante con moto、第三楽章はAllegro (Scherzo)、第四楽章はAllegroである。 
賢治は、『国立公園候補地に関する意見』で、『運命』の楽章を次のように喩えている。
 
しまひはそこの三つ森山で
交響楽をやりますな
第一楽章 アレグロブリオははねるがごとく
第二楽章 アンダンテややうなるがごとく
第三楽章 なげくがごとく
第四楽章 死の気持ち
よくあるとほりはじめは大へんかなしくて
それからだんだん歓喜になって
 
 猫は「ははねるがごとく」ゴーシュをからかい、かっこうは「ややうなるがごとく」ドレミファを練習し、狸の子は「なげくがごとく」小太鼓を教わりに現われ、野ねずみの親子は「死の気持ち」でゴーシュの元を訪れている。「はじめは大へんかなしく」していたゴーシュは彼らとの出会いを通じ、本番に向けて、「だんだん歓喜になって」いく。
『愉快な馬車屋』がジャズ、『なんとかラプソディ』がダヴィッド・ポッパーの『ハンガリアン・ラプソディ』であるとすれば、金星音楽団が練習を続けている第六交響曲は、「特徴ある交響曲、田園生活の思い出」と作曲者自らが付記しているベートーベンの『田園』をイメージしなければならない。第六交響曲と言えば、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの『悲愴』が思い浮かぶ。けれども、ショスタコヴィチも、ウラジミール・ウラジミロヴィチ・マヤコフスキーの『レーニン』という詩をモチーフにしたと本人は言っているけれども、『田園』をイメージして、『第六交響曲ロ短調作品五四』を作曲している。『田園』の第二楽章Andante molto mossoにおいて、フルートがカナリア、オーボエがウズラ、クラリネットがカッコウを演じている。プロコフィエフの『ピーターと狼』でも、フルートが鳥、オーボエがアヒル、低音クラリネットのスタッカートが猫、バスーンがお爺さん、三本のホルンが狼、弦楽四重奏がピーター、ティンパニーとバスドラムが猟師を演じている。自然現象は非線形であり、ゴーシュは動物たちを通じて非線形を再確認し、非線形の音楽の試行錯誤を繰り返す。「このカタロニアの祝歌の中で、嬰児を歌い迎えるのは鷹、雀、小夜啼鳥、そして小さなミソサザイです。鳥たちは嬰児を甘い香りで大地を喜ばせる一輪の花に喩えて歌います」(カザルス)。
ゴーシュは動物たちにいささか乱暴に接している。これはたんなるレッスンではなく、非線形現象である乱流を巻き起こすデュオであり、テティスとの邂逅である。二十世紀の音楽において、媒介によって内部と外部は決定不能性に導かれる。「凡人だけが我慢することを知らない。偉大な人間は待つことを知っている」と言うカザルスは、ピアノのアルフレッド・コルトーとバイオリンのジャック・ティボーとのトリオにおいて、最高の能力を発揮する。金星音楽団にとって、ゴーシュは秩序をかき乱す他者であり、動物たちはゴーシュにとっての他者である。金星音楽団は、ゴーシュという内部とも外部とも言えないものによって媒介されることになる。「Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは赤、母音たち、おまえたちの隠密な誕生をいつの日か私は語ろう」(アルチュール・ランボー『母音』)。かっこうはゴーシュに「ドレミファ」を教えて欲しいと頼み、狸の子は、父親から「ぼくは小太鼓の係りでねえ。セロを合わせてもらって来いと云はれたんだな」と打ち明けている。ゴーシュは、教えることを媒介にして、学ぶ。「教えるとは学ぶことだ」と公言するカザルスはある若いチェリストにこう指導している。「聴きなさい!君はこんな運指をしなかったかね?そう、そうだったね!素晴らしいと思ったよ……これは良かった……そしてここのところ、このパッセージは上げ弓でアタックしなかったかね、こんなふうに?あとは、ミスばかりあげつらって人を評価するような、もののわかっていない連中が取り沙汰すればいい。たった一つの音、たった一つの素晴らしいフレーズに、私は感謝することができる。君もそうしなさい」。また、動物たちがゴーシュを訪問するのは、音楽を学ぶためだけではない。野ねずみはゴーシュに「こゝらのものは病気になるとみんな先生のおうちの床下にはひって療すのでございます」と言っている。ゴーシュの音楽療法は、「いきなりのねずみのこどもをつまんでセロの孔から中へ入れて」、「何とかラプソディとかいうものをごうごうがあがあ」と弾くように、かなり荒療治である。癒しでも、カタルシスでもない。音楽における道化の体験である。教師と生徒も、医師と患者も、道化を媒介に、上下関係ではなく、新たなメロディーを紡ぎ出すデュオとなる。「すべての有機体は自分自身のことを歌うメロディーである」(ヤコプ・ヨハン・ユクスキュル『動物と人間の環境世界への散歩』)。
 
Maria Let's start at the very
beginning. A very good place to start. When you read you begin with…
Gretl A B C.
Maria When you sing you begin with Do
Re Mi.
Children Do Re Mi.
Maria Do Re Mi. The first three notes
just happen to be Do Re Mi.
Children Do Re Mi.
Maria Do Re Mi Fa So La Ti. Oh, let's
see if I can make it easier... mmmm...
Chorus Doe, a deer, a female deer.
Ray, a drop of golden sun. Me, a name I call myself. Far, a long, long way to
run. Sew, a needle pulling thread. La, a note to follow So. Tea, a drink with jam
and bread. And that will bring us back to Do oh oh oh
 
Maria Do Re Mi Fa So La Ti Do, So Do.
Now, children, Do Re Mi Fa So and so on are only the tools we use to build a
song. Once you have these notes in your heads, you can sing a million different
tunes by mixing them up. Like this...So Do La Fa Mi Do Re. Can you do that?
Children So Do La Fa Mi Do Re.
Maria So Do La Ti Do Re Do.
Children So Do La Ti Do Re Do.
Maria Now, put it all together.
Maria and children So Do La Fa Mi Do Re So Do La Ti Do Re Do.
Maria Good...
Brigitta But it doesn't mean anything.
Maria So we put in words. One word
for every note, like this: When you know the notes to sing. You can sing most
anything.
Maria and children When
you know the notes to sing. You can sing most anything. Do Re Mi Fa So La Ti Do
Do Ti La So Fa Mi Re Do Mi Mi, Mi So So, Re Fa Fa, La Ti Ti.
Maria When you know the notes to
sing. You can sing most anything.
 
Maria   
Children
Do       So Do
Re       La Fa
Mi       Mi Do
Fa       Re
So       So Do
La       La Fa
Ti        La
So Fa Mi Re
Ti Do     Ti Do... So Do
(Julie Andrrews ”Do-Re-Mi”)
 
弦楽器の比喩は物理学にも応用されている。超ひも理論とも呼ばれる「超弦理論(Superstring Theory)」において、十次元世界に存在する弦を基本粒子として、電磁力、強い力、弱い力、重力をすべて統一して説明することが試みられている。電磁力、強い力、弱い力をひとまとめに説明しようとする大統一理論には重力が含まれていないのに対して、超弦理論は重力を含んで統一でき、超対称性をもつ弦理論であり、発散のない理論だと考えられている。超弦理論は重力の量子論として矛盾のない唯一の理論であり、無矛盾性を要求すると時空の次元と対称性が決定され、宇宙のすべての相互作用が導かれるように見える。ただ、標準モデルが主流だとすれば、超弦理論は数学的な説明に終始しているため、観測による確証に乏しく、あくまで非主流派である。一九六〇年代の末、加速器による実験で、多数発見されたハドロンを整理する模型として、弦理論は素粒子論に登場し、シカゴ大学の南部陽一郎と後藤鉄男によって明確に提案される。弦のモデルによれば、ハドロンに多くの種類があるのは、バイオリンの一つの弦から多様な音がつくりだされているのと同様である。バイオリンでは、音の違いは弦の振動状態が異なるだけであって、ハドロンもその実体は弦のようなものであり、その振動状態が違うために、陽子や中性子のようにさまざまな種類として現われる。ハドロンのモデルでは、弦の長さは一フェルミ、すなわち十のマイナス十五乗メートル程度とされている。
弦理論は数学的にエレガントであったが、ハドロンのモデルなのに、グラビトン(重力子)などゲージ粒子の働きに似た粒子が出現してくる点、光より速い粒子タキオンの存在が導き出されてしまう点、理論が自己矛盾しないためには、二十六次元世界でなければならない点などの問題があり、弦理論は一九七〇年代半ばには多くの支持を失う。一九八四年、ロンドン大学クイーンメリー・カレッジのマイケル・グリーンとカリフォルニア工科大学のジョン・シュワルツは、ハドロンの弦理論に超対称性の概念とカルツァ=クライン理論を導入して、時間一次元と空間九次元の十次元の世界に存在する超対称性を持つ弦を考えることにより、統一理論としての超弦理論を発表する。カルツァ=クライン理論は、アルバート・アインシュタインが一般相対性理論によって重力場を四次元空間の幾何学的性質で説明したのを受けて、一九二一年、空間にもう一次元付け加えることにより電磁場も重力理論にとりこんで統一的に空間の性質で説明しようとロシアの物理学者テオドール・カルツァが提案し、さらに、一九二六年、スウェーデンの数学者オスカー・クラインが数学的に論じた理論である。われわれのいる時空が五次元空間だとしても、第五次元の方向の広がりが非常に小さければ、四次元にごく近いものと考えられるが、カルツァ=クライン理論はこれを数学的に取り扱っている。リニューアルされた超弦理論は、従来の理論では扱うと発散してしまい、くりこみ不可能な重力までも弦の振動状態として説明できる。ハドロンだけでなく、素粒子全体も扱える。不確定性原理によれば、短時間であればいくらでもエネルギーの大きな粒子の生成消滅が可能であり、ゲージ理論でも計算結果に無限大の量が生じてしまう。これらではいくつかの量を実験値で置き換えるくりこみ理論を使って結果が発散しないようにできるものの、重力の場合は発散する量が無限個も現われてくるため、実験値の置換が不可能である。ところが、弦がプランク長さ、すなわち十のマイナス三十五乗メートル程度という有限の長さを持つ弦理論では、弦自身の広がりに対応する時間より短時間の量子効果には意味がない以上、量子効果のエネルギーに上限が与えられ、発散が起こらない。また、ハドロンの弦理論はボソンのみを扱っていたが、フェルミオンとボソンの両方を扱い、両者の入れ替えを許す超対称性を導入することで、重力を統一するときに現われるもう一つの困難であるアノマリー、すなわち異常項できえ、時空は二十六次元でなく、十次元で十分になる。その上、カルツァ=クライン理論を用いたため、十次元のうち四次元時空以外の部分はコンパクト化、すなわち小さな空間に縮んでいて観測にかからないと説明することができる。「あれあれ風の音につれ、柳の糸を切り払う、斧鉞(おのまさかり)がちょうちょうちょう、コダマはここに魂極(たまきわ)る、時こそ来れ いざさらば」(『三十三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)』)。
 
第三楽章 Allegro storepitoso
 ゴーシュは、動物たちを媒介にして、チェロの練習を続けるが、音楽は音=波の芸術である。音は、光と違い、波の性質を持った粒子の運動ではない。音は空気や液体、固体といった弾性体を伝わる弾性振動の波である。聴覚を刺激する物理現象であるが、近代物理学では、液体や固体における同様な振動も含めて、音と呼ぶ。波動運動のエネルギーが、力を加えられた点から外に伝播するとき、音を運ぶ空気の分子は、波動方向と平行に前後運動する。音波は空気が次々と疎と密を交互に繰り返す弾性波である。疎は空気の圧力がさがっている状態で、密は圧縮されて圧力が上がっている状態を指す。個々の分子は隣の分子にエネルギーを伝えるが、音波が通りすぎた後は元の位置にとどまっている。波形の違いはフーリエ解析により音響スペクトル、すなわち上音の振動数とその強さの分布に換言できるので、音色の違いは音響スペクトルの差異である。ゴーシュは夜の訪問者たちと音のスペクトルを探る。フーリエ級数はサインとコサインの無限級数であり、それは与えられた音波を基本音、すなわち正弦波の重ね合わせに分解したことに相当している。基本音および各上音の減衰の割合も関連している。オクターブは周波数の比が二対一になる音程の間隔であり、nオクターブは二のn乗対一の周波数の比である。あらゆる周波数の成分をほぼ同量ずつ含む音、すなわち連続スペクトルを持ち、周波数帯域一ヘルツに含まれる成分の強さが一定である音を「白色雑音(White Noise)」と呼ぶ。白色光がすべての波長の光を含むことにちなんだ呼び方である。また、周波数に反比例して、高い周波数の音ほど弱くなる音を「1/f雑音(Pink Noise)」と呼ぶ。これも周波数が低い、すなわち波長が長い音を、波長が長い赤い光になぞらえて、白色より赤みがかっているとの比喩から生まれている。音の位相は周波数的現象における全過程中の位置を示す量であり、y=sin(ωt+α)のωt+αが位相である。音楽は波の性質──直進・屈折・回析・反射・干渉・分散・共鳴──によって理解しなければならない。
媒介の芸術である音楽は楽器によって媒介されている。こうした波の性質のため、器楽の曲の場合、ボーカルの入っている曲に比べて、複雑な感情を表現できる。記号化=媒介が進めば進むほど、複雑さを表現できる。アダム・スミスは、『模倣芸術論』において、芸術は模倣であるというアリストテレスの芸術論を受け、美には「克服された困難」にあるというフランス古典主義美学の定義を導入し、模倣が最も困難な芸術形態として器楽をあげている。他方、ジャン=ジャック・ルソーは器楽を模倣の程度が低いものとしたし、ジョシュア・レノルズは建築と音楽を模倣芸術ではないと断言している。アダム・スミスは建築も模倣芸術のカテゴリーに入れている。器楽はこの困難を克服することによって最高の芸術になるはずなのだが、アダム・スミスは、「困難は、模倣をできるだけうまくすることにあるのではなく、いつ、どの程度に、とにかく模倣をするかを知ることにある」とした上で、それを知ることは「最高の巨匠のすべての判断力、知識、創意を要求する技術である」と言っている。アダム・スミスは模倣の困難を克服することから、困難な模倣を使いこなすことへと議論をすり替えているわけではない。媒介性の問題を媒介性によって論じているのである。「人の仕事は人生への表敬なのだろう」(カザルス)。
 
Raindrops on roses and whiskers
on kittens
Bright copper kettles and warm
woolen mittens
Brown paper packages tied up
with strings
These are a few of my favorite
things
Cream coloured ponies and crisp
apple strudels
Doorbells and sleighbells and
schnitzel with noodles
Wild geese that fly with the
moon on their wings
These are a few of my favorite
things
Girls in white dresses with
blue satin sashes
Snowflakes that stay on my nose
and eyelashes
Silver white winters that melt
into springs
These are few of my favorite
things
When the dog bites, when the
bee stings, when I'm feeling sad
I simply remember my favorite
things and then I don't feel so bad
(Julie Andrews “My Favorite Things”)
 
 プラトン以来、音楽は対比によって把握されてきたが、近代に入って、三角級数を援用して理解されるようになる。クリスティアン・ホイヘンスの登場以来、波を三角級数によって、把握するようになると、ジャン・ル・ロン・ダランベールがそれを使って弦の振動に関する編微分方程式を考案している。楽器の弦の振動には定常波が見られ、チェロの弦が弓で弾かれたり、ピッチカートされると、弦の両端を節にして全体が振動したり、中心に節をつくって半分で振動したり、等間隔の二つの節ができて三分の一ずつで振動したり、さらにそれ以上の部分振動がすべて同時に起こる。全体で振動するときの音が基音を形成し、他の振動がさまざまな倍音を形成する。音楽の音符で記される単純な音は、高低・強さ・音色という三つの知覚的な特性を用いて表わせる。これは、周波数・振幅・波形という三つの物理的特性と符合する。雑音や騒音は複合した音であり、和音の関係にない多くの周波数の混合物である。オクターブとは、周波数の比が二対一であるような音の間隔である。五度の音程は周波数が三対二、長三度は周波数が五対四である二つの音から構成されている。音波の振幅は、波の中における空気分子の運動の大きさであり、運動に伴う空気の疎と密の大きさに対応している。波の振幅が大きいほど、空気分子は耳の鼓膜を強く振動させ、感じられる音は大きくなる。音波の振幅は、空気分子の変位する距離、疎と密のときの圧力の差、関与しているエネルギーを測定すれば、絶対単位で示すことができる。
音が届く距離は、音の強さに依存し、その強さは、伝播方向と垂直な単位面積を通過するエネルギーの平均的な割合である。周波数が整数倍になっていれば倍音と呼ばれ、それぞれの倍音の強さが、音色を決定している。均質な密度を持つ媒質の中では音はまっすぐに進行するが、本来の進行方向から曲がってしまう屈折現象を起こす。風下において音がよく聞こえ、風上で聞こえにくいのも屈折のためである。音は、さらに、回折や干渉も起こす。同じ音源からの音波が二つの道筋をとり、一つは直接に、一つは反射して聞き手に届いたとすると、二つの音波は強めあう。二つの音波の位相がずれていると、実際にはその合成音は、反射なしに直接の音だけが届いた場合よりも弱くなる。音が干渉する道筋が違えば音の周波数が異なるので、複雑な音では干渉によって音のひずみが生じる。周波数が違う二つの音が干渉すると、周波数が二つの和または差の第三の合成音が生まれる。二つの波形を足しあわせたとき、振幅が一定周期で変動する。合成した音の振動数は二つの音の振動数の平均であって、うなりの振動数は二つの音の振動数の差となり、また、波の振幅は、最大で二つの音の振幅を足しあわせたものとなるように、音が共鳴する。
クリスチャン・フォン・エーレンフェルスは、一八九〇年、メロディー知覚を例にして、メロディーの「全体は諸部分の総和以上のものである」と説き、メロディー知覚の持つ性質を「ゲシュタルト性質」と呼んでいる。ゲシュタルトは力動的な系の平衡状態を意味する。音楽は波の芸術であり、波動によって理解しなければならない。波動は、物質が移動しないで、エネルギーがある場所から他の場所へと力学的に運ばれて伝わることである。電磁波を除く波は媒体自身の質量の移動なしに、エネルギーが媒体を通して運ばれる。波は運動の方向と変位の方向との関係によって縦波と横波に分類できる。振動が進行方向と平行であるものは縦波と呼ばれる。縦波は、媒体の密度と圧力が最大となる密の状態と最小の疎状態が連続して起こるもので、つねに力学的な波であり、音波はこの典型である。物質中における波動の速度は、弾性と密度によって決まる。ゲシュタルト心理学のヴォルフガング・ケーラーはマックス・プランクの指導を受けているが、マックス・プランクは、熱放射の実験から、エネルギー変化の非連続性を含意する量子仮説を立てている。
二十世紀になると、音楽は対比のような線形ではなく、非線形として把握されることが求められる。惰性に基づく線形の音楽ではなく、非線形の音楽を創出しなければならない。音楽には、会話や騒音同様、純粋な音はほとんど存在しない。音楽の音は基本周波数の他に、その倍音が含まれている。他方、会話の音はさまざまな音の複雑な混合であって、そのうちの少しだけが倍音の関係にあり、騒音は、一定の範囲内のいろいろな周波数の音が混合している。音楽は媒介という倫理を表象している。倫理は共同体の間でそれぞれの常識の調整・妥協する行為であって、ある作品を「音楽的」と評価した場合、耳と音の新たな関係をもたらす倫理的ルールの体現を意味している。純粋な音に対して耳は不完全である。同じ周波数であっても強さが異なる音は、高さが少し違って聞こえる。耳は強い音に対しては、すべての周波数に同じように敏感であるが、弱い音の場合は、中程度の周波数に対しては感度を保つ。完全に働いている音響再生装置で、音量を下げていくと、低音部と高音部が再生されていないように感じられてくる。ある基音がいくつかの倍音を含み、他の倍音や基音を含まない音楽音が耳に届いたとき、耳ではその和や差から構成される周波数を持ったさまざまなうねりが形成される。その結果、もともとの音には存在しない倍音や基音をつくりだしてしまい、しかも、つくられた音はもとの基音の倍音でもある。大形スピーカーのない音響再生装置は、通常、中央のハ音よりも二オクターブ下の低音を出せないが、この装置で聞く人間の耳には、倍音のうねりの周波数を分解することによって基音が伝えられている。さらに、耳は「マスキング」と呼ばれるもう一つ不完全さを持っている。かなり強い低周波の音が存在すると、高周波の音を感じなくなる。音楽は耳と音との共犯関係よって成り立っている。音楽家は耳と音との共犯関係を批判し、批判的な音の創造と批判的な耳の育成を忘れてはならない。「絶対的な耳は存在しません。問題は、それ自体では聴覚不可能な力を聴覚可能にするという、不可能な耳を身につけることです」(ジル・ドゥルーズ『音楽的時間』)。つまり、ゴーシュは、非線形の時代において、教師と生徒との関係同様、道化を通じて非線形的な耳と音との関係を構築する演奏を模索していたのだ。
 
第四楽章 Allegro giocoso
 非線形の音楽を目指すゴーシュは作品の構造的な統一を切断し、波に還元する。音を解放し、エントロピーと化して時間・空間へ拡散していき、聴こえなくなる。そこには自然があり、演奏会場ではない。「最も偉大な作曲家は最も偉大な泥棒であったということを忘れないようにしよう。彼らはいたる所から、あらゆる人から盗みまくったのだ」(カザルス)。ゴーシュの演奏はパフォーマンス的である。現代音楽は、それ以前の西洋音楽が絵画的・演劇的だったのに対して、映像的・パフォーマンス的である。ジョン・ケージは『4分33秒』を発表しているが、演奏者はピアノの前の椅子に座り、ピアノの蓋を開け閉めをするだけで、一切演奏しない。さらに、その第二番は『0分00秒』となっている。手話は、その意味で、極めて音楽的である。そこには、確かに、聞こえないメロディーがある。「私がもしベートーベンを羨むとしたら、それはただ、彼がつんぼだったという一点にかかっている。『盲目には彼らだけの見る夢があるように、つんぼにはつんぼだけしか聞こえない音楽があることはすばらしいことである』」(寺山修司『ベートーベン』)。
 
ぼくは地図帳拡げて Ongaku
きみはピアノに登って Ongaku
Ha ha ha 待ってる 一緒に 歌う時
 
ぼくは地図帳拡げて Ongaku
ぼくはピアノに登って Ongaku
ぼくはリンゴかじって Ongaku
きみは電車ゴトゴト Ongaku
 
Ha ha ha 待ってる 一緒に 歌う時
Ha ha ha 待ってる 一緒に 踊る時
(Ryuichi Sakamoto “Ongaku”)
 
 現代の音楽家は道化である。「芸術家は、仲間から離れて象牙の塔に住むべきだと信じている人々がいることは知っている。しかし、もっともだと思ったことは一度もない」と言うカザルスは、しばしば、きこりが木を切るようにチェロを演奏し、叫び声をあげてしまうだけでなく、レコーディングの際にも唸り声が入ってしまい、その度に、プロデューサーは頭を抱えている。小柄、禿げあがり、ずんぐりむっくりで、冴えない容姿、パイプを手放さず、脇を軽く開け、目を閉じ、首を傾け、弓を弾く。楽器の演奏は技術的に優れていればいいというわけではない。楽器を一つのデカダンスと捉え、演奏自体に倫理が体現されている必要がある。『セロ弾きのゴーシュ』はこのチェロのデカダンスが具現されているが、神の死の決定不能性におけるデカダンスはニヒリズムの極限化ではない。「どうしてそんなに長く音楽を続けられるのかって?音楽で自分を満足に表現できたことが、一度もなかったから。ふんぞり返って『五八年におれが作った音楽は偉大だろ』と言うことができなかった。なぜ?わからない。自分が欲しかった音を手に入れたことはないし、欲しかった和音を弾いたことがない。全精力で、私は『平凡さ』と戦っていたんだ。すぐに自分を捕まえにくる凡庸さ、と」(チェット・アトキンス)。「凡人であることが安定につながって二十世紀」(森毅『変人の時代へ』)の音楽家は、茶番劇の中で、「平凡さ」と戦い続けている。
 
アンコール Allegretto tempestoso
 アンコールを求められたゴーシュは『印度の虎狩』を演奏する。これは、三毛猫に『トロイメライ』をリクエストされた際、その代わりに、悪意で、弾いた曲である。自分を笑い者にして喜んでいる金星音楽団、すなわちアプロディテを見せしめにし、馬鹿にしている「生意気」な聴衆をコンサート・ホールから追放するために、ゴーシュは樂団長が「あんな曲」と評するこの曲を選んでいる。『印度の虎狩』を弾くゴーシュは「インドの狂虎」ことタイガー・ジェット・シンを演じている。「計算ずくで動くが、計算外のことをしでかす男。だからこそ、リング上でも、あれだけの狂気を醸し出せたんだろう。計算して自己演出するだけでは、ああいう狂気のオーラは絶対出てこない。レスラーは役者じゃないんだから。(略)あいつはグラウンドの基礎テクニックや、アルゼンチン・バックブリーカーのような大技を使いこなす実力者でもあった。(略)オーソドックスなレスリングでもメインィベンターを張れる選手だったが、それでもああいうスタイルを選んだのは、商品価値を維持するための戦略だったに違いない」(山本小鉄『いちばん強いのは誰だ』)。
『印度の虎狩』に対する聴衆と楽団員の反応は、好意的とはいえ、戸惑いが見られる。オリエントは作曲家にとってインスピレーションの宝庫である。フランソワ・アドリアン・ボイエルデューの『バグダードの太守』、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『トルコ行進曲』、アルバート・ウィリアム・ケテルビーの『ペルシアの市場にて』、ジョゼッペ・ヴェルディの『アイーダ』、フリッツ・クライスラーの『中国の太鼓』などがあげられるが、その反応はストラヴィンスキーのバレー組曲『春の祭典−異教徒ロシアの音楽』を思い起こさせる。『春の祭典』は、一九一三年五月二十日にパリのシュンゼリゼ劇場で、初演されたとき、サクラをしこんでいたせいもあって、観客は集団ヒステリー状態と化している。「劇場はまるで地震で揺れているみたいだった。観客が罵り、怒号し、口笛を吹くので、音楽はまったく聞こえなかった。ひっぱたく音や、殴り合う音まで聞こえた。(略)ある婦人は隣のボックス席の男の顔をひっぱたき、ある二人の紳士は互いに決闘を申し込んだ」(ジャン・コクトー)。『春の祭典』は、翌日の新聞で、「春の虐殺」とまで酷評されている。こうした反応を引き起こした『印度の虎狩』はヘパイストス的なものの表象である。「何をするにせよ、悪趣味は単調よりはまだましだ」(カザルス)。第六交響曲のアプロディテから『印度の虎狩』というヘパイストスへ、エネルギーからエントロピーへ、層流から乱流への移行が見られる。アプロディテ的なるものを受け入れたのも、ヘパイストス的なるものをさらに明瞭にするためである。へパイストスは、アポロンと違い、固定的な真理=エピステーメを求めない。彼は流動的な狡知=メティスを操るゲリラである。「あゝくゎくこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんぢゃなかったんだ」とゴーシュが窓を開けて最後につぶやく。二十世紀の音楽は内部と外部の決定不能性によって媒介されていなければならない。ゴーシュは弦を弾き、乱流を巻き起こす。それによって音楽の制度が公認している文節の層流的な連続構造を破壊する。音楽は決定論的非周期性のカオスより生まれる。ゴーシュの音楽はエネルギーをエントロピー化させる衝撃波である。新しい音楽はつねに衝撃波として登場する。乱流の発生こそ音楽の創造であり、音楽は、そのため、大団円を迎えない。二十世紀最高の音楽イベントであるウッドストックにおいて、ピート・タウンゼントがギターをアンプに叩きつけ、キース・ムーンがドラム・セットを蹴散らし、ジミ・ヘンドリックスがギターに火を放ったとき、新しい音楽の理想は確かに全世界に響き渡ったのである。新たな音楽を奏でようとするなら、へパイストス=ゴーシュになる。「そんなチェロはぶっ壊してしまえ!きれいな音よりも個性を持つことだ」(カザルス)。
 
I'm gonna write a little letter
Gonna mail it to my local DJ
It's a rockin' rhythm record
I want my jockey to play
Roll Over Beethoven, I gotta hear
it again today
 
You know, my temperature's
risin' and the jukebox blows a fuse
My heart's beatin' rhythm and
my soul keeps on singin' the blues
Roll Over Beethoven and tell
Tschaikowsky the news
 
I got the rockin' pneumonia,
I need a shot of rhythm and
blues
I think I'm rollin' arthiritis
Sittin' down by the rhythm
review
Roll Over Beethoven rockin' in
two by two
 
Well, if you feel you like it
Go get your lover, then reel
and rock it
Roll it over and move on up
just
A trifle further and reel and
rock it,
Roll it over, Roll Over
Beethoven rockin' in two by two
 
Well, early in the mornin' I'm
a givin' you a warnin'
Don't you step on my blue suede
shoes
Hey diddle diddle, I am playin'
my fiddle,
Ain't got nothin' to lose
Roll Over Beethoven and tell
Tschaikowsky the news
 
You know she wiggles like a
glow worm,
Dance like a spinnin' top
She got a crazy partner,
Oughta see 'em reel and rock
Long as she got a dime the
music will never stop
 
Roll Over Beethoven, Roll Over
Beethoven,
Roll Over Beethoven, Roll Over
Beethoven,
Roll Over Beethoven and dig
these rhythm and blues.
(Chuck Berry “Roll Over Beethoven”)
〈了〉